異邦人

カミュの処女作。1942。舞台はアルジェリア

 

とてもよかった。海外文学のなかでトップクラスに好き。終盤の怒涛の勢いには鳥肌もたったし。最後の司祭をまくしたてるシーンはあきらかにハイライト。

 

最初はムルソーが不条理なのかと思ったけど不条理なのは世間だった

この辺は解説読んでわかったのだけれど、(こういうの自分で気づきたい)彼が死刑になったのはまさに母の死に泣かず翌日に女遊びをしたからという世間の常識から逸脱したからに他ならない。そこが世間の非条理さを示しているだろう。

しかしムルソーが人を殺したのも事実であり殺された側からすれば非条理極まりない話である。ムルソーは不条理の被害者ではあるけど同時に加害者なのか?それとも他に解釈があるのだろうか

 

 

ムルソーは諦観の境地だなというのは読んでて常に感じた

異邦人とはまさにムルソー自身のことである。価値観が人と異なるという意味でもだけど、神を一貫して信じないところも?決して祈らない、

 

 

疑問

なぜ殺したのか?

太陽のせいらいしいけど。。。

なぜ死に際して生き返るのか

切れだした瞬間は司祭が「わが子よ」とかたりかけたとき。

 

→君はまさに自信満々の様子だ。そうではないか。しかし、その信念のどれをとっても、女の髪の毛一本の重さにも値しない。君は死人のような生き方をしているから、自分が生きているということにさえ、自信がない。私はといえば、両手は空っぽのようだ。しかし、私は自信を持っている。自分について、全てについて、君より強く、また、私の人生につて、来るべきあの死について。

 

全員が処刑されるというのは印象的だった。。。

 

なぜ多くの民衆に処刑の現場を見られたいのか

最後の幸福を認識するところのロジックが全くわからん。なんで死を意識して解放されるんだ

司祭との対立の意味

 

てか結局本当に人間社会の不条理が主題なのか?

 

 

↓以下調べたりしたこと

不条理

wikiによればこういうことらしい

不条理は彼の書いた著作の中で見ることができるが、「シーシュポスの神話」が不条理をテーマにした彼の最重要な著作である。その中で不条理を理想との間に生じる対立、葛藤、分裂であるとした。特に、不条理に直面した状態を、意味を求めるときに生じた矛盾との対立であるとし、理性をもつ種である人間が直面する問題とした。不条理を悟ったり気づくことは個人に3つの選択をもたらす。自殺、宗教などへの盲信、不条理の認識である。彼は不条理を受け入れることが生き続ける唯一の方法としている。

カミュにとって自殺は「人生は生きるに値しない」という懺悔であり、自殺することは暗に「もう十分生きた」と言うようなことだとしている。自殺は最も単純な不条理の解決法で、この世界での自己の終わりである。

不条理を克服するには、宗教などを盲信するという手もある。これはキルケゴールが『沈黙のヨハネス』という名で触れている。カミュ自身はこれを理性を捨てる行為であるとし、不条理ではないとした。この盲信を"哲学的自殺"とし、肉体的な自殺とともに不条理の解決法から排除した。

カミュは不条理が受け入れることができるものであるとした。理由は、人生の意味が不条理を超えたところにあるからである。もし不条理に気づくことができれば、この世界が意味を持たないことに気づく。ということは個としての我々は真に自由であり、世界を客観的ではなく主観的に捉えることができるとした。個々が意味を探し求めて自分なりの解釈を得ていくことで幸せになれるのである。

『シーシュポスの神話』でカミュは、「不条理から3つの結果を得た。反抗と自由と情熱だ。私は自分の意志で人生に待ち構える死を受け入れ、自殺を拒絶した」と言っている。

まさに司祭が「死んだように生きている」のは哲学的死なのだろう。

 

太陽のせい、というのはあらゆることに意味を見出そうとする民衆にとっては適切な理由にあたらないが、そもそもそれがどんな理由であれ意味はないそういう意味で、太陽のせいってどういうことだろうってかんがえてしまった僕はまだカミュの思考の枠に入れていない。

 

あらゆる事象に安易に意味を見出そうとするのが大半の民衆の行動原理であるが、ムルソーはその一切を否定する。この世に生きる意味などないのである。

 

弁護士と検察のくだり忘れてた。ここではムルソーの行動を自分勝手に解釈していく二人を描くことで、(そしてどっちも外れてる)結局意味がないことを描いているのか。

 

最後の文の世界の寛容さ、ってのは死が万人に訪れるからかな?平等に。それだけは平等に。